新羅の風雅を知る場所、そして悲劇も知る場所
アンニョンハセヨ、ナビです。慶州の南側にそびえる南山(ナムサン)のふもとに小さな史跡があります。現在は木々が生い茂る静かな公園ですが、唯一残るアワビ型の水溝が新羅の歴史を語っています。ここ鮑石亭はかつて新羅王室の離宮として建てられ、歴代の王たちが宴会を開いた場所。三国統一を経て、安定期に入った新羅の風雅が窺われる場所です。
鮑石亭とは
豪奢な建物は時代とともにすべて消え去り、今はアワビ型の水溝が残るのみです。この水溝は浮かべた杯が自分の前を通りすぎるまでに詩を詠じるという遊びに使われたものです。いつごろ作られたのかは定かではありませんが、新羅の第49代国王、憲康(ホンガン)王の頃には記録があり、少なくとも憲康王が在位していた9世紀後半には建設されていたとわかります。
アワビ型に残る水溝水溝に杯を浮かべて詩を読む遊びのことを流觴曲水といいます。日本でも古くから行われており、もともとは中国から伝わった文化だそうです。こうした遺跡は中国でも残されているものがほとんどなく、その意味でも鮑石亭は貴重な資料であるといえます。この水溝までは裏山から水が引かれ、入水口に置かれた亀の石像を経て注ぎ込まれたといわれます。しかしその石像もすでになく、また水溝そのものも植民地時代に行われた補修工事に問題があり、原型とは異なるとのことです。
鮑石亭が見つめた新羅滅亡の歴史
新羅の王族たちが風流に遊んだ鮑石亭ですが、皮肉なことに新羅滅亡のきっかけとなった場所でもあります。新羅の第55代国王、景哀(キョンエ)王が鮑石亭で宴会を開いているとき、後百済の国王、甄萱(キョンフォン)の襲撃を受けました。一時逃れたものの、追い詰められた景哀王は結局自害するに至りました。敬順(キョンスン)王が後を継いだものの、国を保つことができず、935年には高麗に帰順。これにて新羅1000年の歴史が幕を閉じました。また甄萱が築き上げた後百済も彼1代限りで滅び、これより先は高麗の時代へと移り変わっていきます。鮑石亭は新羅の最後を象徴する場所でもあります。
祗摩王陵
鮑石亭の駐車場から右手の小道に入り、畑の間を抜けていくと祗摩王陵(チマワンヌン)があります。祗摩(チマ)王は新羅の第6代国王。23年間の在位の間に、伽耶、日本、靺鞨などの侵入を防いだといわれています。ただしこの陵墓が祗摩王のものであるということに対しては異説もあり、まだはっきりしたことはよくわかっていません。
鮑石亭にはアワビ型の水溝以外、特に見所はありません。周辺にある史跡を合わせて訪ねるといいと思います。すぐ隣にある祗摩王陵を始め、蘿井(ナジョン)、楊山斉(ヤンサンジェ)、三陵(サムヌン)などいくつかの見所が集まっています。500、501、503~508番バスに乗りひとつずつ降りるか、またはレンタサイクルを利用すると便利です。以上、ナビでした。