繁華街に突如現れた巨大古墳公園
アンニョンハセヨ、ナビです。慶州駅前の繁華街を歩いていたら、交差点ですごいものを見つけました。道路のむこうから大きな古墳がこちらを見ているではありませんか。ビルとビルの間から顔をのぞかせる緑の古墳。慶州はやはり過去と現代がひとつ屋根の下で暮らしている町のようです。道路一本隔てて東西に広がる街中の古墳公園。慶州市民の憩いの場としても利用されています。
大通りから路地に入るとそこは古墳公園
慶州駅からバスロータリーに至るエリアは繁華街として賑わっています。碁盤目状に伸びる道には商店街や飲食店街が連なり、映画館、PCバン、コンビニエンスストアなどが立ち並びます。このような風景自体はソウルでも釜山でもどこの地域でも珍しくはありませんが、そこに古墳公園まで付け加わってくるとなると話はまったく違います。繁華街のド真ん中に古墳が同居する。それが慶州の醍醐味です。
道路を隔てて古墳が並ぶ理由
路東洞・路西洞古墳公園は道路を挟んで東側が路東洞古墳公園。西側が路西洞古墳公園。文字通り道路を隔てて東西にわかれた古墳公園です。なぜ道路の両側に古墳が……。と疑問に思っていると、タクシーの運転手さんが答えを教えてくれました。
「古墳が道路の両側にあるんじゃない。人間が古墳の間に道路を作ったのさ。」
なんとも明快な答え。実にまったくその通り。道路の歴史よりも古墳の歴史が古いなどということは、考えてみれば当たり前のことでした。同様に繁華街の中に古墳公園があるのではなく、人間が古墳群の中に繁華街を作ったのです。運転手さんの言葉を聞いて、自分の考えの浅さを恥じたナビでした。
スウェーデン+鳳凰=黄金の冠?
1926年のことです。慶州駅の機関車庫をつくるために路西洞にあった小さな山を切り崩していると、そこが古墳であることが判明しました。ただちに工事は中断され、発掘調査が始まりました。このときの発掘調査には当時日本を訪問中であった、スウェーデンの皇太子(のちのグスタフ6世。考古学者でもある)も参加しました。発掘に参加した皇太子は手ずから、美しい新羅時代の金冠を掘り出しました。この金冠に鳳凰の装飾が施されていたことから、この古墳はスウェーデンの漢字語である瑞典の「瑞」と鳳凰の「凰」の字を取り「瑞鳳塚(ソボンチョン)」と名付けられました。このとき出土した瑞鳳塚の金冠は国立博物館の古墳館で見ることができます。
この瑞鳳塚はほかの古墳のように山型にはなっていません。少し高くなった古墳跡の前にスウェーデン皇太子の発掘記念碑が置かれています。
ケヤキを生やした丘のような古墳路東洞古墳公園には鳳凰台(ポンファンデ)という巨大な古墳があります。ひときわ大きいこの古墳には、枝ぶり豊かなケヤキが中腹にうわっています。木が生えているところを見ると、古墳というよりは小さな山。あるいは小高い丘のようにしか見えません。
憩いの場としても利用されています
街中の公園は市民の憩いの場としても利用されています。ベンチで休む人。古墳のふもとでお弁当を広げる人。なっている柿をとっている人もいました。繁華街の中でのんびりとくつろげる場所。そんな役割も担っているようです。
慶州は果たして住みよいか?
前述のタクシー運転手さんと続けてこんな話をしました。
「慶州の印象はどうだい?」
「そうですね。歴史を身近に感じられてすばらしいところだと思います。」
「そうか……。」
「そうではないんですか?」
「観光で来ればそうだろう。だが住んでいるものにとってはそんなにすばらしいところではない。たとえば家を買ったとするだろ。その庭からなにか掘り出されてみろ。すぐさま発掘調査隊がやってくる。自分の家なのに住むこともできない。いつ終わるかもわからない発掘調査をずっと待ってなければならないんだ。」
「そうですか……。」
路東洞・路西洞古墳公園のあたりはかつて民家でした。路西洞にある金冠塚も1921年に民家を建てようとしていて金冠が掘り出され、古墳として認定された場所です。現在のように古墳公園として造成されたのは1984年のこと。その際には路西洞から55棟、路東洞から34棟の民家が他地域に移されました。自分の家なのに住むこともできない。歴史と背中合わせで暮らす慶州のもうひとつの側面といえます。以上、ナビでした。