波瀾万丈の釜山近代史を学べる歴史館
アンニョンハセヨ、プサンナビです。国際市場から歩くこと約3分。真っ白で西洋風の建物が見えてきます。まわりの建物とは違った趣を醸し出すこの建物、これが2003年7月3日オープンした近代歴史館です。
この一見優雅な建物、この建物自体がたどってきた歴史のため、釜山の人々にとっては、釜山の悲しい歴史の象徴となってもいるのです。実は、この建物は、日本の植民地時代の1929年、朝鮮の経済を支配する目的で作られた「東洋拓殖株式会社」の釜山支店として建てられたものでした。第2次世界大戦後はアメリカの海外広報の拠点である「釜山美文化院」として使われましたが、1980年代以後、韓国の民主化要求が強まり、アメリカとの関係を再度検討する動きとアメリカ軍基地返還要求が高まると共に、この「釜山美文化院」の返還を求める市民運動も行われました。その結果、1999年韓国政府に返還され、その年の6月釜山市が引き継ぐことになりました。このような外国からの収奪の歴史をたどってきた侵略の象徴であるだけに、釜山のつらい歴史を伝える教育空間としてふさわしいと言うことから、主に、日本の侵略による受難を経験した釜山の近代史と韓米関係史で構成された展示を行う近代歴史館として生まれ変わりました。
1階 近代資料室、映像室、情報検索室、休憩室
情報検索室、歴史関連書籍の閲覧、休憩室などがあります。
2階 開港期の釜山、日本帝国の釜山収奪、近代都市の釜山
釜山のたどってきた歴史を写真、映像を通して見ることが出来るのが2階の展示室。大きく「開港期の釜山」「日本帝国の釜山収奪」「近代都市の釜山」の3つのコーナーに分かれています。
開港期の釜山
1876年の「日朝修好条規」の締結による釜山開港以後、釜山には多くの日本商人が集まりました。日本人は朝鮮政府の干渉を受けず自由に貿易をできる環境を作り上げ、また、釜山居留日本人を保護するための支配機構も当時の日本によって準備されました。このコーナーでは、日朝修好条規、日本人居留地図、日本との外交・貿易を担当する官吏の任命状などを展示し、開港後の釜山の様子を伝えています。
日本帝国の釜山収奪
当時の日本は朝鮮の米の収奪、日本の工業・産業品の販売推進、安い労働力収奪などを目的に朝鮮の工業化を進め、また、日本の資本家に金融支援を行うために日本の銀行を設立、そのほか商業、水産業などの様々な分野にその支配力を広げていきました。ここでは、商工会議所の活動記録、日本人指名が連なる警察官僚名簿、徴兵の様子、戦時債券、紙幣などを展示し、当時の日本が釜山で物的・人的収奪を行ったのかを伝えています。
近代都市の釜山当時の日本は釜山を大陸侵略の拠点にするために、海岸の埋め立てを行い、市街地整備を進め、日本人のための病院、下水道施設、新聞など社会・文化施設も多く作られました。市街地整備により釜山の中心地が港近くに形成され、これまで中心地として機能していた東莱(トンネ)の伝統的な街の様子は失われ、日本人の遊楽街に変化しました。このコーナーでは、釜山の町並が埋め立て計画、市街地計画を通して変化する様子、日本人遊興地となった東莱温泉の当時の姿、観光地図などが展示されています。
3階 東洋拓殖株式会社、韓米の関係、釜山のビジョン、企画展示室
東洋拓殖株式会社
日本が朝鮮の経済を支配する目的で1908年に設立された国策会社「東洋拓殖会社」は朝鮮でのお米の安定した供給により、日本の農民を救済しようとする目的を持っていました。そのため、朝鮮での農場経営と日本人の移民政策を積極的に推進し、1917年以後には、金融、産業資本にもその領域を広げました。ここでは「東洋拓殖会社」の事業活動、そして、「東洋拓殖会社」の収益のために小作料を収奪された朝鮮小作農民の苦労の様子などが紹介されています。
韓米の関係
第2次世界大戦後、勝戦国と敗戦国の植民地としての立場だったアメリカと韓国は朝鮮戦争を契機に同盟を結ぶことになり、アメリカは韓国の再建に大きな影響を及ぼすことになりました。このコーナーでは終戦後のアメリカと韓国との関係が写真、雑誌、パネルを通して紹介されています。
釜山のビジョン
現在の釜山、未来の釜山を様子がパネルによって紹介されています。
時代の流れに従って作られた各コーナーには、たくさんの写真、資料が展示されているので、抽象的な感覚ではなくて具体的に釜山の歴史について学ぶことができ、その具体性ゆえに押しつけがましくはないけれど、何か迫ってくるものがあります。普段私たちが慣れ親しんでいる釜山の波瀾万丈の過去を再認識できる場所、「釜山近代歴史館」、観光スポットからもとても近く、アクセスも簡単なので、ぜひ一度訪れてみてください。以上、プサンナビがお伝えしました。