新羅でもっとも発達した古墳!
アンニョンハセヨ、ナビです。慶州一円に広く散らばる数々の古墳。大きいものもあれば小さいものもあります。あまりあちこちにあるので、しばらくいると見飽きてしまうなんて声も聞こえてきます。でも慶州にある古墳にも時代の違いによって微妙な差があるってご存知ですか? 新羅は紀元前57年から約1000年間も続いた王国。その間に同じ王陵でも技術革新があったのです。新羅でもっとも発達した古墳がこの掛陵(クェルン)。他の古墳との違いを見比べてみましょう。
掛陵を護る8体の像
掛陵の敷地に入るとすぐ、左手に視界が開けます。松林に囲まれた中央が、ゴルフ場のフェアウェイのように、まっすぐと伸びる芝生の道になっています。芝生の道の両脇には等間隔で石像が並んでいます。西域からやってきた人たちを描いたといわれる武人像、文人像、そして笑顔の獅子像。まるで生きているかのように見事な石像です。武人像、文人像は2体が向かい合っており、獅子像は2体ずつ計4体が向かい合っています。獅子像は東西南北を守護しており、それぞれが自らの護る方向へ首を向けています。8体の像の手前には華表石と呼ばれる古墳の境界を示す8角形の石柱が立てられています。
古墳を彩る数々の装飾
8体の像の間を抜けて古墳に近づいてみると、華美な装飾が目に飛び込んできます。特徴的なのは3点。まず古墳の周囲には十二支神像を刻んだ護石があります。これはキムユシン将軍墓や九政洞方形墳などに見られる統一期以降の新しい形式です。さらに全体を石柱と欄干が囲んでおり、また古墳の正面には眼象紋を彫った床石が置かれています。これだけ全部揃った古墳は他にはありません。
掛陵は誰の陵墓?
掛陵は新羅第38代の元聖(ウォンソン)王の陵墓だと伝えられています。しかしこれには異説もあり、別の場所にある陵墓を元聖王のものと考える人もいます。
古墳の進化を見極める
慶州にある古墳をいくつか回ってみると、それぞれだいぶ形体が違うのに気付きます。例えば新羅の初代王である赫居世(ヒョッコセ)王や2代の南海(ナメ)王などが眠る、五陵(オルン)の古墳にはなんの装飾も施されていません。土を盛っただけの至ってシンプルな陵墓です。それが新羅29代、武烈(ムヨル)王の陵墓になると、周囲に割石で護石を積むようになります。キムユシン将軍墓や九政洞方形墳になると、さらに欄干で囲まれ十二支神像の護石が登場します。掛陵はその最終形体であり、護石、欄干、石床、獅子象などが配置された完全な姿だと言えます。
掛陵は慶州にあるどの古墳よりも美しい姿をしています。笑う獅子、新羅を訪れた外国人の顔。古墳を囲む十二支神像。決して広くない敷地ですが、見所は満載です。やや交通の便が悪く、また周囲にはなにもありませんが、足を運ぶ価値は充分にある場所です。慶州に散らばる古墳のひとつひとつがまた少し違って見えます。以上、ナビでした。