巧みに積まれた石垣に戦国末期の築城技術を見る
アンニョンハセヨ、プサンナビです。国際ホテル、クラウンホテルなど日本人観光客にお馴染みのホテルが立ち並ぶ汎一洞(ポミルトン)エリア。3つの大型市場、ホルモン通りなどグルメ、ショッピングスポットが大きくクローズアップされていますが、そんな有名市場やホテルのすぐそばに重要な歴史遺跡が存在していたことをご存じでしたか?
倭城とは?
今日、ご紹介する史跡「子城台(チャソンデ)」は一般的に「倭城」と呼ばれるお城の跡。
まず倭城について簡単にご説明を。豊臣秀吉が朝鮮半島を侵略しようとして起こした「文禄・慶長の役」の際に、戦略の根拠地の確保、連絡の拠点、攻撃への防衛のために築造された城のことを言い、釜山近隣にはこのような倭城の跡が全部で30もあると言われています。これらの倭城から戦国期に発展した日本の築城技術を知ることができるため、歴史好きの間では大きな関心、研究対象にもなっています。
釜山鎮支城=子城台
「子城台」というのは、言ってみれば呼び名で本来は「釜山鎮支城」というのが正式な名称になります。もとも釜山浦には関門と言える「釜山鎮」がありました。日本軍がそこを陥落させた後、毛利輝元が「釜山鎮」の東南側にその支城として築き上げたものがこの「子城台」。「釜山鎮」を「母城」、そして、その支城である「子」の城というところからこの名前が生まれたと言われています。文禄・慶長の役の際に、ここで指揮を執った小西行長の名を取って「小西城」と呼ばれることもあるそうです。
※釜山鎮跡
現在は海を埋め立てたため、当時の地形と全く変わってしまいましたが、当時「釜山鎮」は海に隣接していたと言われています。その跡は現在、佐川洞(チャチョンドン)にある甑山(チュンサン)公園一帯に残っています。また、地下鉄1号線佐川洞駅のすぐそばには、「釜山鎮」の陥落と共に殉死した釜山僉使(高官職の一つ)鄭撥(チョンパル)をはじめとし、殉死した戦士が祭られた「鄭公壇(チョンゴンダン)」もあります。
「子城台」は文禄・慶長の役の後には、釜山鎭僉使営(軍事的な鎮営)として使用されましたが、日本の植民地時代に、整備計画により城が撤去されると同時にこの一帯が埋め立てられ昔の姿をまったく失ってしまいました。現在残っているのは石垣(残っている城跡の城壁の高さは最高で10メートル、最低で1,5メートル)だけですが、日本の近代の築城技術を知る上で、重要な資料とされています。
城跡の他に、東門、西門、将台である「鎮南台」などがありますが、これらは1974年の工事によって建てられたものです。また、高麗時代の英雄的将軍「崔瑩(チェヨン)将軍」の祠堂、「文禄・慶長の役」に参戦した明国の「千萬里」の記念碑などもあります。
現在は、簡単な運動が出来る施設、そして園内をぐるっと一周できる形で作られた散歩道などがあることから、釜山市民が家族で遊びに来たり、健康のために散歩やジョギングをしに訪れたりする、市民の憩いの場所として活躍しているようであります。そのような公園としてのイメージが強すぎること、そして、にぎやかな周囲のイメージに押され、見逃され勝ちな歴史史跡「子城台」、複雑な背景を持っているだけに、歴史の重みを深く感じることのできる大きな機会を提供してくれる場所と言えるでしょう。以上、プサンナビがお伝えしました。